2011年7月2日土曜日

2万人で「原発ゼロへ!」

 昨晩は石巻市の両親の家に泊まり、朝4時に起きて市内を一回り。

 私の通っていた石巻高校から日和山は近く、春の桜の頃には必ず行き町も一望していたものです。

 しかし今日、朝に見えた光景は、私の知っている「日和山から見える石巻」ではありませんでした。

 いまだ水も引かず、旧北上川の対岸を見ればガレキの山‥‥朝の空気が、重く感じられました。

 何のために私は写真を撮っているんだろう、とも思いました。

 ただ惨状を伝えるだけでなく、希望の道も一緒につくっていきたい。

 日和山に掲げられた「ありがとう」の文字に、本当の生活再建・地域復興に力を尽くさないと、と決意を新たにしました。

 仙台へバスで移動し、新幹線で東京・明治公園へ。 「原発ゼロをめざす7.2緊急行動」に参加です。

 道労連からの参加者と合流するはずが‥‥なかなか見つからない‥‥先に紙智子参議院議員と高橋千鶴子衆議院議員とバッタリ会い、話しているうちにやっと合流。

 とにかく会場の熱気がすごい!

 あいさつの1つ1つに「そうだ!」の声、連帯の拍手の大きさ、そして一体感。

 連帯あいさつに共産党志位委員長、参加者アピールでは伊達市霊山町の元町長さん、郡山市で被災された方‥‥愛媛大学の女子学生の爽やかなあいさつには、とりわけ大きな拍手!

 私は青年酪農家が、現状を「人間らしく生きることも、人間らしく死ぬこともできない」との話にズキッときました。

 パレードは2コースに分かれて、私は南青山を通り代々木・原宿(地理が詳しくないので違っているかも)方面に加わりました。

 なぜか福島の隊列の間に北海道が入り込んでしまいましたが、写真のようにムシロ旗が立ち並び、アピール度はバツグン。

 暑い東京ではありましたが、「原発なくそう!」と声を上げながら45分ほど歩き続けました。

 後方の列では「えぇじゃないか」をアレンジして「原発なくしても、えぇじゃないか~」と訴えながら歩いていたり、青年たちが独自のコール(覚えられない私は、もう青年じゃないかも‥‥)で歩いていたり。

 参加者数は、何と2万人!だそうです。

 被災地の復興、原発事故の収束、そしてエネルギー政策の転換‥‥どれもが重く、急ぐべき政治課題。

 これだけの大きな力があれば、必ず変化はつくれると元気になりました。

 明日から党の第3回中央委員会総会。私も出席です。

 【今日の句】 暑いけど 未来に向けて 歩くんだ

2011年7月1日金曜日

気仙沼市へ(4)

 1日(金)8:00
 北海道からのボランティアチームは、この時間に全員集合。

 市社会福祉協議会で請けた仕事は、ホテルの1~3階の荷物出し。暗い階段で力仕事でもありますが、みなさん率先して引き受けました。

 私は今日のうちに石巻市に移動のため、別行動。昨日、物資を要望していたお宅へと届けてまわりました。

 10:30
 今日も物資が届き、写真のように仕分け作業。物資を届けるにしても、どこに何が入っているか整理するだけでも時間がかかります。

 すでに準備しているプレハブも一杯。登米市のお宅を借りられそうなのことですが、ちょっと距離があり、保管場所も悩みのタネです。

 昨日よりは雲もあり、風もあるため涼しい1日。党支部のみなさんも毎日活動し、本当にすごいと思います。

 13:00
 食事を取って、せっかくなので記念撮影! みなさんの了解も得たので、ブログにちゃんと載せましたよ~。

 よく考えれば当たり前ですが、震災後このようにみんなで写真を撮ることもなかったそうです。現像して郵送することを約束しました。

 辛い現実も多くありますが、こうやって少しずつ、前へと進んでいるんです。

 たった4日間の滞在でしたが「また来なければならない」という思いが、湧いてきました。

 写真では伝わらない、実際の被害スケールの大きさ、鼻を突く臭い、市民1人1人の表情と思い‥‥何ができるのか、真剣に考えさせられます。

 被害現場から少し離れれば、これまで通りにお店は開いていますし、国道沿いも多くの車が走っています。町のすべてが、機能を失っているわけではありません。

 仮設住宅に住む方も、北海道から来て初対面の私たちなのに、いろいろと話をしてくれました。いや、遠くから来ているからこそ、普段はまわりも被災して言いにくいことを話してくれるのかもしれません。

 北海道に戻り、私の知った現実を多くの方に知らせなければと痛感しています。

 15:00
 石巻市から迎えに来た父と合流。名残惜しくはありますが、間もなく気仙沼を後にします。

 ひとまず気仙沼レポートを終えて、今日のうちに石巻市へ、明日は朝早くに出て東京へと向かい明治公園での「7.2原発ゼロをめざす緊急行動」に参加します。この様子も明日に!

 【今日の句】 国会を 延長した意味 どこ行った

気仙沼市へ(3)

 29日(水)17:30
 明日に来ると聞いていた党道委員会の保村(やすむら)さんが、飛行機に乗って早く到着!

 保村さんは千田さんと一緒に、6/12から気仙沼市で活動していましたが、ご不幸があって一度北海道に戻っていたのです。

 しばし歓談。雰囲気も明るくなります。

 30日(木) 6:00
 今日も朝から陽射しがきつい! 最高予想気温は30℃です。

 昨日、全国で猛暑日の観測地点は74ヵ所とか。みなさんも、体調管理にはお気をつけくださいね。

 写真は、千田さん達と寝泊りしている通称「第一ボランティアセンター」。プレハブ建てなので暑さも厳しく、朝から扇風機もフル回転です。

 北海道党ボランティア受け入れには、隣町の一関市千厩町に「第二」センターがあるのですが、とりあえず今は私1人ということで「第一」にいます。

 今日は、札幌東区・旭川市からのボランティアも到着する予定。私もがんばります。

 11:00
 午前中は打ち合わせや買出しなど。

 党釧根地区委員会からは、お米などが届きました! さっそく地元党員の方が仕分けなどをおこないますが、これもまた一仕事。

 13:30
 昼のうちに党東区地区・旭川地区の計7人が到着。一気ににぎやかに。

 土曜日におこなう物資無料配布の案内に、2地域の仮設住宅訪問に取り組みました。

 私は東区地区のみなさんと、旧新城小学校に建っている仮設住宅へ。

 案内とともに、地元の党が取り組んでいるアンケートと「支援の手引き」も渡しながら話をうかがっていきます。

 最初のお宅では、赤ん坊を抱いたお母さん。

 「2ヶ月なんですよ」と言うので「うちも同じ!」と話すと、少し笑顔も。

 次のお宅では、玄関先で10分近い話に。ここは2回目の抽選で当たったと言い、まわりは知らない人ばかりなので、顔と名前を覚えなきゃと話していました。

 「私は車を出せるから、町から遠いこの仮設にも入れるけど、お年よりは大変よ」と、自分たちが仮設に入れたからといって即安心、とはならない心情が伝わってきます。

 「これから暑くなって一気に洗濯するのに、物干し竿がなくて」

 「車を持ってないので、今は知り合いなどに頼んで同乗させて買い物に。暑い日に自転車で行ったら、帰りに熱中症になりかけた」

 というのも、この仮設住宅のある場所は坂の途中でして、やっぱり車がないと何かと大変なのです。

 「雇用保険の切れる時が心配」と、これからの仕事の不安も出されました。

 15:30
 ひとまず全戸をまわり、同乗した東区地区のみなさんを被災現場に連れて行きました(私が運転手役なのです)。

 昨日も通った場所でしたが、高潮に当たったからか水が吹いていて、通行できない場所や土嚢を積んだギリギリまで水位が上がっている場所もありました。

 それでも重機が入りガレキなどの撤去をしていますが、まったく足りない現実は昨日と同じ。

 東区地区のみなさんも、言葉が出ない状況でした。

 16:00
 センターに戻り、もう1ヶ所の仮設住宅を回ったグループと意見交流。

 ちょうど集会所で指圧ボランティアがされていた時だったそうで、地元町内会長さんとも話になり、北海道から来たと話したら「どのように奥尻は復興したのか」と聞かれ、資料を求められたそうです。

 他にも、野菜などの物資が嬉しいと話題にもなったようです。

 こうやって振り返って書くと、1人だけでは1日でほとんど何もできていないようでも、多くの人が一気に動けば何かが前に進む感じになります。

 全国から継続して、一緒に頑張りぬくことが大事なんだなぁ、とあらためて感じます。

 18:10
 ニュースを見てビックリ! 仙台市や気仙沼市は、記録が残る6月としては過去最高の気温だとか。

 気仙沼市は33℃!

 どおりで暑かったし、腕も真っ赤になるはず(写真でわかるかな?)‥‥夕方になって強い風が吹き、けっこう涼しくなってきましたよ。


 【今日の句】 官邸の 体感温度は いざ知らず

2011年6月29日水曜日

気仙沼市へ(2)

 29日(水)6:00
 プレハブ建ての党救援対策センターに泊まり、市の無線放送(6時と21時に音楽が鳴るんです)に目を覚ましました。

 今日の予報は晴れ、最高予測気温は31℃!

 9:30
 続々と、地元党員の方が集まってきます。まずは私が持ってきた「白い恋人」を食べながら、朝の打ち合わせ。

 秋山市議・千田さんと支援物資を手に、仮設住宅のある鹿折(ししおり)中学校へ足を運びました。

 党が取り組んだアンケートに書かれた要望をもとに、トイレットペーパー・夏服衣類・粉ミルクなどです。






 行く途中に港付近を通るのですが、写真のとおりに想像を絶せる被害が目に入ります。

 石油タンク(?)が横倒しになり、まだ手付かずのままになっています。






 川を遡った大型漁船は、建物をなぎ倒し、そのための被害もあったそうです。









 気仙沼は大きな火災がありましたが、その焼けた自動車などが錆び始め、原型を留めていません。

 物資は喜んで受け取ってもらい、支援金が手に入っていないことへの相談なども寄せられました。

 仮設住宅で、少しずつでも生活が始まっている様子に、ちょっとホッとしながら、これからも生活を考えると心配ばかりが頭を覆います。

 12:00
 地元党員のみなさんと、おしゃべりしながら昼食。暑い日なのでソウメンがうれしい!

「助かった家でも、周りの家がすべて壊れて避難し、“自分ばかりが助かって‥‥”と、いたたまれなくなって家を出た方がいる」

「仮設住宅に入ると“自立”になって、支援を受けられなくなる。避難所なら、食料とか不十分でも生きていられる。どうやって生きればいいと、高齢者に泣かれちゃった」

「新しく入ったアパートでも、水道が通ったのは先週」

「教室が足りなくて、2学年が1クラスで勉強している」

‥‥地震当日も含め、次々と話が出ては止まりません。

これだけの震災で、いまだに被害が続いているわけですから、不安や心配を口にして共有しあうこと自体も大切なんですよね。

 15:40
 千田さんの車のタイヤがパンクし、交換するなどの間、対策本部の留守番をしていると「物資はありますか‥‥」というご家族が。

 ご自宅が津波で流され、お母さん(おばあちゃん)は「いつも思い出してしまうよ」と一言。

 支援物資を受けられないか、関係しそうなセンター等を回られているそうです。

 本当に支援の手を必要としている方々が、多くいます。

 夕張の党組織から支援物資の申し出もあり、ありがたい一方で地元での整理・配布体制も強めないとなりません。

 限られた期間しかいられないことで、何だかもどかしい思いになります。

 【今日の句】 大臣が できて物事 進むやら

気仙沼市へ(1)

 28日(火)7:00
 仙台港に向かうフェリーから陸地は見えますが、霧がかってよく見えません。海には、流れてきたのだろう木の枝なども所々に浮かんでいました。

 10:00
 着岸間近、中野埠頭から少しずつガレキの山が見え、ターミナル前には文字どおりガレキの山。










 フェリーから降り。ターミナル前の交差点を見てン?

 信号があったはずですが、残っているのは1機だけ。その1機も傾き、赤・黄がなく青信号だけが残っています(写真でわかるでしょうか?)。

 写真の山の奥には、被害を受けた数え切れないほどの自動車も並んでいます。

 電気は復旧しているはずですが近くの信号機は点いておらず、被害の大きさを実感します。










 11:40
 仙台駅から石巻市行きのバスに乗車。自動車道に乗って、仙台市と利府町の町境ほどがガレキ置き場になっていて、山のようになっていました。

 13:00
 6/12から来ている、党道常任の千田さんと石巻市で合流。立町から中瀬を過ぎ、湊方面から日和大橋を渡り、大街道方面を車でまわってきました。

 避難所になっている湊小学校前では、泥さらいの作業をしているボランティアが‥‥よく見ると「共産党」の腕章! どこでも頑張ってるんですね。

 子どもの頃に見に行った映画館、川開き祭りで鼓笛隊として通った町並みが失われていました。言葉になりません。

 漁港に近い地域は、ヘドロと腐食した魚の臭いみたいな感じの臭いがきつく、水産会社も、日本製紙工場付近の工場も、まったく形を成していない。

生まれ育った石巻市の状態に愕然とし、重苦しい感情ばかりが湧きます。

 15:00
 南三陸町を通過。

国道45号線は津波で流出したり、土砂崩れなどで不通でしたが、3日前に復旧してくるまで走れるようになったそうです。

そういう道路事情だったからでしょうが、南三陸町は3月11日のままのように見えました。

写真は一部分しか切り取れませんが、広く広く、目で見える範囲すべてが写真のような状況なのです。その中にポツンと、屋根のないガソリンスタンドが店を開き‥‥。

何でこんな奥地にまでという場所に、土台しかない住宅地や、田や畑に、グシャグシャになった船や車が流されていて、手付かずのまま。

暗澹とした気持ちになります。

ところどころに「全国から支援ありがとう」「がんばっぺ」の文字。どういう思いで、これを書いたのかと思うと胸が痛みます。


 16:00
 南三陸町から気仙沼市に向かうなかでも、線路の上に家があったり、漁船が田んぼの上にあったり。高台にある家なのに、1階が押し流されていたり。

 気仙沼市に到着。被害の大きい南気仙沼地域に車を走らせましたが、焼け焦げたアパートや会社、まだ片付いていない民家などが目に付きます。

 石巻市同様、臭いが鼻を突きます。

 二階が無事の半損の家も目立ち、それでも明かりが点いていて、住んでいる方が多くいるのに気づかされます。

一昨日まで雨が降り続き、大きな水溜りができていた地域も。津波跡かと思うほど、冠水している道路もありました。

 党の地元対策本部に着くと、物資届けを終えた地元党組織の方々が戻り始めている時でした。

 党員の方でも家が流され、それでもこのような物資届けなど支援活動に取り組んでいるんです。

 被災現場も、そこに住んでいた人たちの思いも含め、気持ちの整理がつかないような状況です。それだけひどい。何人ボランティアがいても、まったく足りません。

 夜に千田さんと打ち合わせをし、今日はこの後、地元党員の方や気仙沼市議・秋山さんと、被災された方に要望を伺いに行く予定です。

 【今日の句】 道行けど 重さばかりが 胸を突き

2011年6月27日月曜日

これから宮城県へ向かいます

 これから苫小牧港へ行き、フェリーに乗って宮城県へと向かいます。

 震災の救援・復興ボランティア活動に、ようやくですが直接加われます。

 もちろん、現地に行けなくとも連帯した活動は全国どこでもできるわけですが、妻にも無理言って今回に至りました。

 日本共産党は、被災地を全国の党組織が分担して活動に当たっています。

 北海道は気仙沼市を担当し、向こうに着いてまずは私も気仙沼市に向かいます。

 先乗りしている担当者に無理を言って、受け入れがあれば出生地の石巻市でも力になれればとお願いしています。

 7月1日まで活動し、2日に東京へ、3~4日は党3中総に出席します。

 現地の状況も、書ける範囲でお伝えしますね。

 【今日の句】 微力でも 無力でないと 思いつつ

2011年6月26日日曜日

過去の侵略戦争に、きっちり反省してこそ

 気がつけば、今年もあと5日で半分を過ぎるんですね。だんだん1年が、とても早く感じるようになってきました‥‥。

 さて今日は、娘のクラスの友達のお姉ちゃん(長い説明ですみません)が通う朝鮮初中高級学校の「アンニョンフェスタ」に足を運びました。

 道内各市の商工会議所などの協力もあって、たくさんの出店に舞台での踊りなどの披露、各種展示に見入りました。

 娘はチマチョゴリに夢中になって「また着たい!」と言ってましたが‥‥。

 舞台であいさつした女子学生は「在日1世・2世の苦しみを受け止めながら、私達もしっかり頑張りたい」と話していました。

 そもそも日本の植民地政策があり、日本に永住せざるを得なかった在日朝鮮人が、民族の尊厳を持って文化の継承などもはかってきた学校です。

 国際条約などで認められた権利であり、日本政府も批准しています。

 しかし、これまで多くの偏見・差別に苦しみ、高校無償化でも対象外とされる議論までされました。

 過去の侵略戦争に、きちんと反省していない問題に決着をつけないといけないと、つくづく思います。

 午後には、党白石・厚別地区委員会の「復興支援と原発を考えるつどい」へ。

 大門実紀史参議院議員が全般的な話をし、私は泊原発をめぐる問題、伊藤りち子市議も札幌市政とのかかわりで話をされました。

 書ききれないほど質問が相次ぎましたが、原発事故の今後を誰もが心配している、ということなんですよね。

 短期的な見通しと、中長期的な見通しと、そして放射能汚染に関する政府からの責任持った基準の明示‥‥いずれにしても避けては通れない課題ばかり。

 このように集う場が、もっともっと増えればと切に思いました。

 【今日の句】 子どもらに やっぱり安心 渡したい